たい焼きは元々「かめ焼き」だった

日本の庶民的な和菓子の代表として挙げられるのが「たい焼き」です。その名の通り、魚の鯛を模した形をしていますが、元々は鯛ではなく亀だったのです。

たい焼きのルーツ

たい焼きの発祥は東京麻布十番にある1909年創業のたい焼き専門店「浪花家総本店」だという説が有力です。現在でもたい焼きの老舗として有名・人気店であり続ける浪花屋も、当初は試行錯誤をしていました。

たい焼きは今川焼きが発展したものとされます。浪花屋も元々は今川焼きを販売していましたが、売れ行きが芳しくありませんでした。そこで、亀の形をした「かめ焼き」を考案。しかしこのお菓子もあまり売れなかったのです。

しかし諦めることはせず、高級魚であり、当時は庶民にはなかなか口にすることができなかった鯛の形としてかめ焼きをリニューアルさせたのです。これが大好評を得て、浪花屋は大成功を収めたのでした。

新聞の三面記事はなぜ「三面」?

三面記事とは新聞の社会面のことを指します。芸能ニュースやエンタメ系のいわゆるゴシップ記事など、一般社会の雑多なニュースを取り上げる紙面とされます。しかし3ページ目にあるわけでもないのに、なぜ「三面記事」と呼ばれるのでしょうか。

三面記事の由来

1892年11月1日に、日本の小説家・思想家である黒岩涙香によって、『萬朝報(よろずちょうほう)』という日刊新聞が創刊されました。この新聞はわずか4ページ(四面)しかなく、広告、政治経済、ゴシップ系、文化記事によって構成されていました。

そうです、『萬朝報』の三面がゴシップ記事を載せていたことから、以後日本で発行される新聞ではどの面にゴシップ記事があろうとも、社会面を「三面記事」と呼ぶようになったのです。

たこ焼きの発祥は大阪ではない?

関西地域では、たこ焼きはなんとご飯のおかずにまでなってしまうとか。ジャンクフードやB級グルメなどとして紹介されるたこ焼きですが、本場の関西人からしてみれば「B級だなんてとんでもない!」という声が聞こえてきそうです。今や全国で美味しいたこ焼きが食べられますが、やはり本場のたこ焼きはひと味もふた味も違うようです。さて、たこ焼きの本場は本当に大阪で間違いないのでしょうか?

たこ焼きのルーツ

たこ焼きの元祖は、大阪市西成区「会津屋」とされています。しかし初めから現在のようなたこ焼きとして完成していたわけではありません。たこ焼きの前身は「ラジオ焼き」と呼ばれる食べ物でした。

ラジオ焼きはタコの代わりに牛スジ肉を入れたものでしたが、牛肉の値段が高騰してしまい、手軽に食べれるものではなくなってしまいました。そこで目を付けたのが、たこ焼きよりも歴史が古い兵庫県生まれの「明石焼き」でした。明石焼きは小麦粉ではなく卵をふんだんに使った衣で、中にタコを入れ、ダシに付けて食べるもので、江戸時代から食べられていたとされます。

そして1935年、会津屋はスジ肉の代わりにタコを入れた「たこ焼き」の販売を開始したのです。これが大ヒットを生み、現在に至るまで長く愛されるローカルフードとなったのです。確かにたこ焼きの発祥は大阪で間違いはないと言えますが、たこ焼きの歴史は意外と浅いものなのでした。

なぜ神社で祈願する時に「絵馬」を奉納するの?

ご存知の通り、絵馬は手のひらサイズの木の板に馬の絵などが描かれたものであり、そこに願いごとや願いが叶ったお礼などを書いて神社に奉納するものです。現在は馬の絵以外にも様々なものが存在しますが、そもそもなぜ馬の絵が描かれているのでしょうか。

絵馬の由来

絵馬を奉納する習慣は飛鳥時代からあるとされます。古来より馬は神聖な生き物であるされ、特に白い馬は神馬(しんめ)と呼ばれ、神が乗る乗り物であると考えられてきました。そこで、神事を行う際は本物の馬を貢物として奉納していたのです。しかし全ての人が本物の馬を奉納できるわけではありません。本物の馬を奉納できない人々は、木や土、紙などで馬をかたどったものを奉納するようになり、奈良時代には現代のように、絵に描いた馬を奉納するようになったのです。

江戸時代に入ると、絵馬の奉納は庶民の一般的な願掛けとなり、その願いも家内安全や商売繁盛などの、より日常生活に近しいものとなってきました。

さらに近代では、昭和の時代になると受験生が合格祈願として絵馬を奉納する風習が一般的になり、絵馬=受験シーズンというイメージまで根付かせたのです。さらにこの時代より、馬の絵だけではなく、様々なバリエーションの絵馬も誕生しだしました。

「キュウリ」は緑色なのになぜ「黄瓜」?

野菜のキュウリ漢字で「胡瓜」と書きますが、それ以前は「黄瓜」と書いていました。キュウリの色は緑(青)なのに、なぜ「黄色い瓜」と書かれていたのでしょうか。

キュウリの歴史

まず、現在使われているキュウリの漢字である「胡瓜」という字の「胡」の文字は、古来の貿易ルートであるシルクロードを表したものです。キュウリは日本で自生・栽培していたものではなく、シルクロードを介して外国から入ってきたものなのです。

そもそも皆さんが普段食べているキュウリは、実が熟していないものだから緑色をしています。シルクロードを経由してくる段階で徐々にキュウリは熟され、色が黄色くなります。そして昔はこの黄色く熟したキュウリが食されていました。このことから、元来キュウリは「黄瓜」と書かれていたのです。

しかし甘みが薄いことから未熟な緑色の状態で食べることが好まれるようになり、漢字も「黄瓜」から「胡瓜」に変わっていったのです。

早起きすると本当に得するの?

早起きは三文の徳」ということわざがあります。正確には「徳」という字が使われますが、「得」と勘違いしている方も多いでしょう。しかし意味としてはほぼ同じ意味です。このことわざはその言葉通り、「早起きをすると良いことがある」という意味ですが、どれだけの良いことを指すのでしょうか。

三文っていくら?

「文」は明治維新で「円」が導入されるまで使われていた日本の通貨で、一文は現在の価値で30円程度です。つまり三文は100円弱でしかありません。このことから、早起きをすると“ちょっとした”良いことがあるという意味で使われることわざなのですが、別の見解もあります。

それが「早起きをしてもたったこれだけしか良いことがない」という意味です。「二束三文」や「三文芝居」という言葉にも使われるように、三文という言葉にはどうしてもマイナスなイメージが付いて回ります。

しかし早起きをすることで、身体の自律神経を安定させたり、免疫力を高めたりする効果が期待できます。身体が健康であればこそ、良いことは巡ってくるのかも知れません。

年賀ハガキの普及は一般男性の努力の賜物

インターネットの普及に伴い、減少の一途をたどっている年賀ハガキですが、やはり手書きでも印刷でも直接手元に年賀ハガキが届くのは嬉しいものです。年賀ハガキには必ずクジが付いており、その年初めての運試しとなっています。このお年玉付き年賀ハガキは、一般人の男性が考案したものでした。

年賀ハガキの起源

正式には「お年玉付郵便はがき」と呼ばれる年賀ハガキが初めて発売されたのは1949年のこと。終戦直後であったこの時代には通信手段が乏しく、知り合いの消息もどうなっているのか分かりませんでした。そこで、大阪で洋品雑貨の会社を営む林 正治は、年賀ハガキを考案したのです。年賀ハガキにクジを付ければ、皆が買ってくれ、差出人・受取人の消息も分かる機会になると考えたのです。

林は自身で作成したポスターや見本のハガキ、クジの当たり景品などのアイデアをひっさげて、大阪の郵便局で郵政大臣への紹介状を書いてもらい、すぐに上京して郵政大臣などと面会しました。しかし結果は即却下。それでも諦めずに交渉を続けた結果、ようやく正式に採用にいたります。

現在では現金やふるさと小包、切手シートなどが当たりますが、当時のクジの当たり賞品は「特等・ミシン」「1等・純毛洋服地」「2等・学童用グラブ」だったそうです。

年賀ハガキで大成功おさめた林は、その後郵政審議会の専門委員までをも務めました。

クリスマスプレゼントを靴下に入れるのはなぜ?

目覚めたら枕元にそっと置いてあるクリスマスプレゼント。子どもの頃は大変嬉しかったものです。クリスマスの前日はサンタクロースにプレゼントを入れてもらえるように靴下を用意しておきますが、そもそもなぜ靴下にプレゼントを入れる風習が生まれたのでしょうか。

サンタクロースのモデル

サンタクロースのモデルとなっている人物は、紀元前4世紀頃に東ローマ帝国でキリストの教えを説いていた聖ニコラスです。この聖ニコラスにまつわる有名な話が、次に紹介するクリスマスと靴下のお話です。

クリスマスと靴下

とある貧しい家族いました。その家族は生活のために三人の娘を売らなければなりませんでした。その話を聞いた聖ニコラスは、真夜中にこっそりとその家の煙突に金貨を投げ入れたのです。その金貨は煙突の下の暖炉に干してあった靴下に偶然入りました。聖ニコラスは残りの二人の娘も救うため、再び金貨を投げ入れるのですが、三回目には家の主人に見つかってしまいました。

このことが町中に広まり、クリスマスには靴下を、そしてサンタクロースは煙突から入ってくるという言い伝えとなったのです。

「八百長」は「八百屋」と関係がある?

八百長とは、実力で勝てる相手にわざと負けたり、事前に打ち合わせをして試合を展開することを指します。昨今でもスポーツなどで時折、八百長問題が報道されるなどして世間をにぎわせることがあります。しかしなぜ「八百長」というのでしょうか。似たような言葉の「八百屋」と関係がるのでしょうか。

八百長の語源

実は、意外にも無関係ではないのです。「八百長」という言葉は、明治時代に実在した八百屋の店主である「長兵衛」にあるといわれています。もうお分かりだと思いますが、「八百屋の長兵衛」で「八百長」というのが、長兵衛のニックネームだったのです。

この長兵衛が何をしたのかというと、大相撲協会の役員であった伊勢ノ海五太夫に店の商品を買ってもらうためのご機嫌とりとして、囲碁の対局でわざと負けていたのです。しかしその後、囲碁の棋士である本因坊秀元と互角の勝負をしたために、長兵衛の実力がバレてしまいます。

それ以降、事前に示し合わせてわざと勝負を付けることを、長兵衛のニックネームから「八百長」と呼ばれるようになったのです。

「片腹痛し」はお腹が痛いことではない

身の程を知らない人の行動に対して、古い言い方で「片腹が痛い」と言います。片腹とは現代でいうと脇腹のことですが、どうやらこの言葉の語源は、人の行動をみてお腹が痛くなるまで笑うことではないようです。

片腹痛しの語源

現代用語辞典であるイミダス(imidas)によると、「片腹痛い」は次のように解説されています。

身の程を知らない他人の言動・態度がおかしくてたまらない。また、ひどくばかばかしく思う。苦々しく思う。笑止千万である。「あなた程度の知識で、この大問題に取り組もうなどとは片腹痛い」
imidas

しかし実はこの言葉、中世以降にその漢字が誤って伝わってしまったのです。

もともと「片腹(かたはら)」は「傍(かたはら)」であり、「傍痛し」は「傍(かたわら)で見ていても気の毒な様」という意味で用いられてきました。しかし歴史的仮名遣いである「は」を「わ」と解釈したところから生まれてしまったのが、「片腹痛し」の誕生のルーツだったのです。