うどん・そば・そうめんの話

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○はじめに

 久し振りに、こんなネタを用意してみました。麺類では前回、ラーメンを取り上げましたが、今回は「うどん」・「そば」のお話です。普段何気なく食べている物の歴史を探ってみるのも、時には面白い物です。が、参考文献を色々当たっていると・・・うぅん、結構複雑だなぁ・・・。今回は歴史と、讃岐うどん、、きしめん、わんこそば、五色そうめんについてお届けします。半ば冗談で始めた企画ですが、なかなか書くのが難しいものでした。奥が深いですね。

○まずは麺類の誕生から

 まず麺類のルーツ。古代中国には小麦粉食品「餅(もち)」というのがあって、後漢の末期に小麦粉を練って煮て食べる湯餅(タンピン)が登場。これのヴァリエーションの一つとして麺類が誕生したといわれています。三国志の時代から六朝(中国・南朝)時代には、練り粉を手で伸ばして作る麺が食べられ、さらに唐の時代には麺棒で生地をのばし、包丁で切る「切り麺」が登場し、宋の時代には大体、今の中国で食べられる麺が大成されたと言われています。

 ちなみに、中国では華北地方で小麦の栽培が盛んでした。ところが、これは歴史研究所をみて欲しいのですが、宋は異民族王朝金の侵攻により、江南地域に遷都します。華北を失ったわけですから、小麦があまり手に入らなくなった、でも食べたい・・・ゆえに、江南地域で多く生産されていた米を使い、「ビーフン」が誕生しました。

 このビーフンに代表される米の麺。その後中国人達が東南アジアに進出するに従い、かの地域でも食べられるようになりました。

 ちなみに、中国の麺をマルコ・ポーロがイタリアに伝えて、それがパスタになったという有名な話があるけど、俗説にすぎないそうです。

○「うどん」「そば」と「そうめん」の成立

 色々調べてみましたが、実を言うとよく解らない。みんな、曖昧に書いてくれちゃっていますが、おそらく次のような感じです。

 奈良時代に、唐から小麦粉を練って作った、食べ物がやってきます。
 これが、15世紀末あたりから、今のような切り麺の形に変形し始め、少なくとも室町末期、遅くても江戸初期になって、「うどん」「そうめん」が成立。
 一方の蕎麦も、ソバ粉から作る以外は、似たような歴史をたどっています。奈良時代~室町時代には「そばがき」「そばかゆ」の形で食べていました。
 なお、ソバは奈良時代以前からもあったようです。

 *そばがき・・・・そば粉を深い器に入れて、熱湯を注ぎながら激しくかき混ぜる。よく煮立ったものを刻んで、ネギ・おろし大根といった薬味と醤油をつけて食べる即席料理。夜食向きらしい。でも、夜食にしている人いるの??

 結局、どうやらはっきりとしたことは解っていないみたいですが、つまり日本では、小麦粉・そば粉を練って水で溶かして食べていた物を、室町時代末期から、切って麺の形にして食べ始めた。ということです。下に、とりあえず詳しいことを書いておきます。

 「とりあえず」というのは、本によって異なった記述が多いからです。切られた形の、今の蕎麦については、室町時代からお寺で切って食べたという説と、江戸時代初期に朝鮮の僧天珍が伝えてからとする説もあります。

 ちなみに蕎麦。明治中期から機械で生産されるようになりました。おそらく、うどんもそうめんも同じように機械化されて作られるようになりました。現在、手で作るものは「手打ちうどん」「手打ち蕎麦」などとして売り出しています。

 もう一つ、面白い話題としては、「うどん」も「そば」も江戸時代から普及し始めましたが、傾向として「うどん」が讃岐うどんからも解るように関西とその周辺で普及。一方、「そば」は、信州そば、深大寺そばでわかるように、特に江戸と関東で普及します。これは、江戸の人達が「そば」の方が「うどん」より高級だ!と考えたからだと言われていますが・・さてさて・・。

 江戸っ子は、濃い醤油汁にちょっと蕎麦をつけて食べるのが粋だったようです。

 ちなみに、京都ではニシンそば、兵庫では出石そばがあります。もちろん、「そば」は関西でも食されてはいます。

○一応、詳しく書くだけは書いてみます

 日本に「うどん」が伝えられたのは、讃岐国(高松県)の伝承では、遣唐使として唐に渡ったお坊さん・空海が伝えたと言われています。空海は長安の青龍寺で密教の修行を積みましたが、この寺を始め、各寺には麺料理専門の僧がいたそうです。

 ところが、実際には日本にはそれより100年も早く、奈良時代に唐菓子の一種である索餅(さくぺい)はくたく混沌(こんとん)が伝えられていたそうです。 このうち・・・・。
  ・索餅は後に麦索(むぎなわ)とも言われるようになり、「そうめん」や「五島うどん」の源流。
     これは麦縄とも表記するようで、縄状の太い麺だったようです(が、よくは解っていない)
     なお、奈良時代はそれを万葉集にも詠まれた、奈良の三輪山にある大神神社に奉納されていました。
     もちろん、奈良時代は団子状のものでは?と、私は推測します。
          (この関係で、現在も三輪そうめんが生産され、各地で売られていますね)。
  ・はくたくは山梨県の「ほうとう」の先祖。きしめんをさらに一回り大きくしたようなコシのある麺ですね。
  ・こんとんは餡入りの団子で、形はワンタンに似ていたらしいですが、通説ではこれが一般的な「うどん」になったんだって!。

 でも、実際には索餅・麦索と混じり合いながら、「そうめん」と「うどん」ができあがったみたいですね。詳しく述べると・・

 ・麦索は普及していく間に
   一、「うどん・そば」のように、こねた小麦粉(そば粉)を、平たく伸ばして切る。
      (なお、「うどん」は、熱くして食べる物を「熱麦」、冷たくして食べるのを「冷麦」といいます。)
   二、練った小麦をひも状に伸ばし、油をつけた手で、ひきのばして切る「そうめん」

 と、なったということです。解るようで解らない解説ですね。しかし、これが「うどん」「そうめん」を分ける、最大の違いです。

 ちなみに、うどんは、「饂飩」と書きます。語源は、間違いなく「混沌(こんとん)」から来ているようです。また、そうめんは、索餅から索麺、そして「素麺(そうめん)」へと表記が変わっていったようです。

 最後に余談。ニ八そば、という名前を聞いたことありませんか?そばの代表的な製法なのですが、江戸時代中期、そば粉8に、つなぎの小麦粉を2の割合でうったところからきたといわれています。

○うどんと言えば、讃岐うどん

 以上の堅いお話では、面白くないので、やはり、こんな四方山話もお届け。

 うどんと言えば、讃岐うどんがあまりに有名。一体、なんで讃岐でうどんなのか。

 うどん王国さぬき発「麺の博物館」http://www.pref.kagawa.jp/menpaku/には、以下のようにあります。

  江戸の中期(1713年)に出版された『和漢三才図絵』に「讃州丸亀の産を上とす」とあるように、讃岐の国では、古くから良質の小麦を産していました。また、昭和に入ってからも、香川県産の麦は、兵庫県産や岡山県産のものと並んで「三県麦」と称されるなど、全国的に高い評価を得ていました。これは、温暖で雨が少ないといった気候条件や土壌などが小麦の栽培に適していたからで、この質の良い小麦から、香りがよく、適度な粘りと弾力があり、しかも口当たりの良い「うどん」がつくられたわけです。

 瀬戸内海沿岸では、古くから塩づくりが盛んで、19世紀のはじめには、全国で生産される塩の約90%を、十州塩田(讃岐をはじめとする瀬戸内海沿岸の塩田)産が占めていました。この十州塩田のなかでも、讃岐でつくられる塩は、赤穂(兵庫県)の塩と並んで特に良質とされていましたが、これは、海岸一帯の砂浜が長くて、遠浅で、潮の干満の差が大きく、さらに、一年を通じて雨が少ないなど、気候風土が塩づくりに最適であったからです。そして、この豊富で質の良い“塩”が「うどんづくり」の材料の一つになったのです。

 (所長注:うどんは、食塩を溶かした水で、よく小麦粉をこねます)

 ちなみに、世界の麺の分類は、やはり同サイトのhttp://www.pref.kagawa.jp/menpaku/world/top_menu_wr.htmlにあります。これも併せて参照されると良いでしょう。所長、手抜き・・。

○讃岐うどんを食す

 さて、讃岐うどんの本場、香川県のお店では、他県と注文の仕方が異なることでも有名。それは、セルフ方式という店で、凄い店になると、うどんの麺だけ与えられて、お客が自分でうどんを作ることもあります。ねぎまで畑から抜かされることもあるとか。一見変な感じですが、お客の好きなように具が盛りつけ可能で、慣れてしまえば便利なシステム化も知れません。

 ちなみに、讃岐うどんの庄「かな泉」http://www.kanaizumi.co.jp/の場合・・・

  一、まず、店内に入って、うどんの大、または小の入った丼を取る。
         (なぜか、そばも置いてある←自分の店なのに、こんな事書いている)

  二、中のうどんをテボ(湯切りかご)で湯の中に入れ、自分で温め、 元の丼の中に戻す。

  三、お気に入りの天ぷら、かき揚げ、きつねあげ等をのせる。

  四、いなり寿司、おにぎり、おでん等を取る。

  五、レジでお金を払う。

  六、その後、ダシを入れ、好みで生姜・カツオ節を自由にのせて 出来上がり。

くどいようですが、これは開くまで一例。お店には行ったら、他の人がどのようにやっているか、観察するのが基本だそうです。

○きしめんの元になったのは??

 名古屋名物、「きしめん」。

  今でこそ、きしめんは平らな面ですが、初めは碁石のような丸い麺。そこで、棊子(=碁石)めんといわれた。呼び名だけがそのまま残ったようです。

 この、棊子麺。水で練った小麦粉を薄くのばし、輪切りにした竹で押さえて丸く切り抜き、そして茹でる。これにきなこをつけて食べたそうです。この辺に、昔の「うどん」の原型をみられますね。

 また江戸初期、尾張藩の藩主がキジの肉をうどんにいれさせたところ、味が気にいり、「きじめん」と命名して以来、作り方が広まったという俗説もあるようです。それが、その後、だんだんとキジの肉の代わりに油揚げをつかうようになり、庶民的な食べ物になっとか。尾張との繋がりでは、こっちの説の方が説得力あるような気もします。

(写真; Microsoft(R) Encarta(R) Encyclopedia 2001より)

○わんこそばって何?

 うどんでは、讃岐うどんが有名ですが、蕎麦では信州そば、東京の深大寺そばなど色々ありますね。ここでは、盛岡の郷土料理・「わんこそば」についてご説明。

 東北地方は気候が厳しく、そのため土地が痩せていました。ゆえに、古来から稲の代用品として栽培しやすかったソバの栽培が盛んに行われました。そして、やはり切り麺が登場する江戸時代。盛岡藩主南部利直が江戸にでかけるとき、家臣たちは名物のそばを秀衡椀とよばれる藤原秀衡(1122~87年 平安末期の奥州藤原氏3代目)にちなんだ塗りの椀にもってさしあげたのが始まり、といわれます。

 これが、客にそばを沢山食べてもらおうと、次々蕎麦を器の中に盛るような「おもてなし料理」になり、今では1杯食べると、お給仕さんが、すぐに次の蕎麦を持ってくる形式になりました。もちろん、これに便乗して行われるマスコミの大食い選手権は異常ですが。

 ちなみに、「わんこ」とは、「お椀」のこと。「こ」とは、東北地方の方言で、名詞の後によくつけるそうです。

 ちなみに盛岡。蕎麦の他にも、「じゃじゃ麺」「盛岡冷麺」といった、盛岡独特にアレンジされた麺も存在します。 盛岡冷麺は、堅いコシが特徴。さらに、こってりとしたスープに、キムチまでのってくる、そう、朝鮮伝来の冷麺です。昭和28年誕生で、新しいもの。

 詳しく知りたい方は、もりおかの観光 http://www.nnet.ne.jp/~morikan/title.html をご覧ください。宿泊予約も可能。

○伊予・松山の五色そうめん

 このそうめんには、松山在住中、私もお世話になりました。愛媛県松山市独特のそうめんです。と言っても、基本的には普通のそうめん。ただし、石鎚山の名水で仕上げられ、さらに「五色」で解るようにカラフルで美しい。 近松門左衛門も、わざわざ四国の豪商から取り寄せたほど「味はもちろん、麺の美しさよ!」みたいな事も言っています。 さらに正岡子規、弟子の長塚節も、絶賛。

 歴史は1635年。伊勢桑名藩主の松平定行が国替えで松山に転勤になりました。この時の従者・長門屋市兵衛が、松山でそうめんの商売を始めます。それから約90年後。長門屋の8代目の娘は、ある日お参りに行った時に、偶然まとわりついてきた5色の色をみて、親父にそうめんに色が付けられないか提案。

 苦心の末、赤色は紅花から、黄色はクチナシ、濃紺は高菜、緑はクチナシと高菜のミックスで色を付けることに成功。8代将軍吉宗に絶賛され、さらに朝廷でも絶賛。これ以後、松山特産として大ヒットすることになりました。

参考文献・HP
歴史学事典 2 からだとくらし (樺山紘一 責任編集  弘文堂)
世界原色百科事典 (小学館 なお昭和40年の本)
つい誰かに話したくなる雑学の本 (日本社 編集 講談社+α文庫)
Microsoft(R) Encarta(R) Encyclopedia 2001

うどん王国さぬき発「麺の博物館」http://www.pref.kagawa.jp/menpaku/
讃岐うどんの庄「かな泉」http://www.kanaizumi.co.jp/
もりおかの観光 http://www.nnet.ne.jp/~morikan/title.html
五色そうめん森川http://www.goshiki-soumen.co.jp  

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